![]() これはケイト・ブッシュのアルバム『THE RED SHOES』の 表題曲にある歌詞の一部。 「赤い靴」は、「うまく踊りたい」と願うバレリーナの夢は叶ったが 靴が脱げるまで踊り続けなければならない、という物語。 夢であって欲しい事と現実であって欲しい事がある。 私はどちらも現実だと思っている。すべて本当に起こっている事。 「胡蝶の夢」のようにどちらが夢か現実であるか迷うのであれば 両方実感しているものにすればいい。人であり蝶である。 例えばなめらかなテーブルの上でコップが移動して驚いたとする。 科学的にその現象を説明するのは簡単。表面張力。 そんな風に簡単に説明されたくないと感じるのは 夢見がちな人かもしれない。 私ならどこに注目するか。 移動したコップに「わっ」と驚いたとこに注目する。 感覚を閉じて生きていると喜怒哀楽のない、 ‘ただ過ぎて行く日々を暮らす’になってしまう。 ヒドイ目にあった辛い記憶があるなら 何事にも感じないようにするのではなく、 それを糧としてさらに強くなればいい。 悩んでいる人は強い。傷を見つめる事ができるから。 人には忘れる力があるというのに、 忘れずにいつまでもこだわっている。 なんと強い人であるか。 考える事が好き。だけどそれは人の心の奥深くまで届くものではない。 正しさもハデさも求めちゃいない。 ただ、広がりを持たせたいだけ。重みはない。 しかし自分の言葉に(マイナス方向に)重みがあると気づいた時、 ひどく動揺する。 夢であって欲しい。だけど夢じゃない。 できる事は受け止めるのみ。 言い訳はするけどね。 PR ![]() こないだ中古でソフトバレエ(以降SBと省略)の ライブビデオ『Reiz』を入手。 このライブは会場で楽しんでおり、 BSでも1時間30分ほど放送されたというのもあって、 「大体同じならいいか。お金ないし」と先送りにしていた。 果たして先送りにしたまんまSBは活動を修了(終了?)。 ああ、9年後にしてこの名演を2500円で購入できるとは。 当たり前なのかもしれないが、音響に手が加えられている。 ビデオデッキもS−VHSに変えたもんだから音がいいのなんのって。 で、あの当時は自然に感じていた‘美’のレベル。もっすご高い! あ〜んなキレイな人達を目の前で楽しんでいて よくストーカーにならなかったよ。 「SPINDLE」は泣かすね。 元曲はニューオーダーのフレーズ使ってたし。切なすぎ。 それでも解散を惜しまない私の淡白さ加減。 だってあれだけのライブならそのまま終わっても惜しくないだろう。 活動停止や解散にはあまり動揺しない。 それはショックが大きすぎて後からジワジワくる感じとは違う。 たいがい「もうやめたほうがいいんじゃないか?」と思ってる時に 宣告されるからだ。 いつまでも同じ事をダラダラとやってる人達より、 「飽きた!新しい事やりたい!」って次に向かう人達の方が よっぽど魅力的。 それで新しい作品がつまらなければ聴かなければいい事だし、 選ぶのは私。 情だけで音楽を聴いているのであれば、 それは演者を甘やかしている事に他ならない。 かつて平沢さんは「ファンに飼いならされている」と発言したが、 その危険性は多分にあると思う。 ファンの母性を否定するつもりはないが、 それが元で演者をつぶしてはいけない。 「好きな事をやれ」と言われても、 それだけじゃ聴く人を満足させる事はできない。 聴き手をある程度選べるだろうけど 、人を思い通りに動かすほどつまらないものはない。 んなわけで、感覚器官全開で楽しみ、 さらに素晴らしいライブは記憶にバチッと残る。 ライブビデオとはまた別の印象を残して今も、 色あせる事なく傍らに存在する名演。 宝は増えていくばかり。 ![]() 私結婚した事ないんですけど。 友達でも「この人、できた人だな」って思う人から嫁に行ってます。 やっぱりね、一緒にいて安らげる感じがしてました、嫁に行く前から。 そういう人ですよ、伴侶にしたいのは。 そのできた人から「わからないよ、次は…かもよ」と ありがたい言葉をいただいてしまいました。 行くかね、ちょっくらちょいと。 周りにめぼしい人がいないから、お見合い? うわ、条件を挙げなきゃなんないぞ。 「別居でどう?」って、そんなの志村けんさんしかいないよ。 ダメだこりゃ。次行ってみよう。 私こんな人に好かれるんですけど。 ルックス重視タイプ。いわばひとめぼれしちゃう人。 あ、私のルックスが‘キレイ’なわけじゃなくて。 ‘おとなしそうで、思い通りになりそう’っていうお人形さん的意味で。 だって知らない人からしか「付き合ってください」と言われない。 そこがわかってるからめちゃめちゃ屁理屈をこく。 たいてい「夢、破れたり」って感じで去って行きますよ。 勝手に夢を抱かれて、勝手に絶望していく、 その様子をしっかり見てる私。 騙さないとダメなんでしょうけど、本物志向ですから。 というか、仮面を外すタイミングが掴めない。 相手からすりゃ、「少しは夢を見させてくれよ」なんだろうねぇ。 次にチャンスがあったら騙してみようか。 うぅ、そんな大人じゃないよぅ。 私10歳ほどごまかせるんですけど。 見た目年齢がね、低いんですよ。 精神年齢は高いみたい。 20代前半に見える→結構しっかりした事を言う →「若いのに」「若くないですよ」「え?いくつ?」 →実年齢を言う→「!?!」というパターン多し。 あのねぇ、実年齢若くてもしっかりした事言う人たっくさんいるってば。 どうして見た目や年齢で全てを決めつけるかなぁ。 枠外す方がおもしろいじゃない。 ※掲載されていた精神年齢診断サイトのURLが無効。 2011年、改めてチェックしてみた。『GoisuNet』 TOP→心理テスト→精神年齢チェック 結果は【25歳】ぐらいで【華の青年】レベル。 低くなってる。 ![]() アゲハが飛んでたんです、 当時住んでいた平屋のアパートのちっさい庭で。 学校でも公園でも見る事の少ない蝶が目の前で飛んでる! それで「もっとそばで見たいな」と思ったわけです。 欲が沸いたのですね。子供でも不純です。 そこで野蛮でバカな子供はアミを探してる間に逃げられてしまうか、 捕まえても羽を傷つけたりして 美しさを減じるという失態をやらかす(そこまで言うな)のですが、 私は当時からミもフタもない方法で 目的に向かって突っ走っていました。 って、大した事じゃないんですけど。 なぜアゲハがウチの庭に居たのかを考えればすぐ分かる事でした。 アゲハは柑橘系の木の葉を食べて育つという知識をゲットしており、 庭にはタネから育ったグレープフルーツの木がある事を思い出し、 「そこか!?」と駆け寄った(約1mの距離)ところ、 すでに孵化したイモちゃんがいたのだから、する事はひとつでした。 育てる。 プラスティックの、金魚も暮らせる小さな虫かごに 葉っぱとイモちゃんを入れた。 虫の生き様はシンプルで大好き。 5mmほどの大きさから5cmくらいまで育ち、 とうとうさなぎにまで成長。 もうワックワクです。夜にさなぎを見て、朝に蝶を見る。 ファンタスティック!! ハイ、目的達成。黄色も黒も。 非線型で飛んでくちょうちょは自由を得てまぶしかった。 で、考えた。これひどい手口だな、と。 成虫になったら「飛んでけ〜」と解放したけど、 虫にもトラウマあるかもしんない。 さなぎまでただ食うだけの生態なら 狭い部屋で暮らしてもストレスにはならないだろうけど、 意思ってもんがあれば大問題。 そんなあれやこれを子供ながらぼんやりと感じた私は 育てる事をやめた。 今でも‘飼う’という言葉は好きではない。 ‘暮らす’でないならひとりでいたほうがマシ。 相手が虫でも動物でも植物でもヒトでも、 支配と従属という関係にはなりたくない。 ![]() 追い詰められると逃げ場を探す。 追い詰める人や物事をどかすにはどうしたらよいか。 今まではなんとかしようと対策を練っていたけど、 考え方をちょこっと変える事にした。 どかそうとしない。 もうどんな批判でもイヤミでも誤解でも悲劇でも不運でも 全部受け入れるぞ、こんにゃろ。 だって逃げると追われるんだもん。 で、人は何に追われてるかって‘期待’がそのひとつね。 もちろん自分自身にも追われるわけさ。 期待に背いた罰を与えているのは誰なのか。 私の場合は自由が欲しいから自由を与えるんだけど、 それが「勝手にしろ」に映るらしく、 「冷たい」というお答えが返ってくる。 これまではこのお答えに反論してきたんだけど、やめた。 反論するのは 「冷たくしたつもりはない。あなたに干渉したくないから」 と、自分なりの愛情表現なんだけど、通じないものはしょうがない。 相手が欲しいものを与えられなかったというだけ。 欲しいものを与えてもらえないからと怒りをぶつけるのはお門違い。 このあたり、意識的にコントロールできたらいいのに。 そういった事に気づかせてくれたアナタに感謝です。 *自由を与える事が愛情表現になるのは、母が毎日口癖のように 「あ〜、干渉されたくない束縛されたくない、自由が欲しい!」 と繰り返していたから。 刷り込みってやつでしょうか。 母に愛されたい私にとっては ‘干渉しない・束縛しない’が愛を表現する事になるのです。 しかし人によっては‘干渉する事・束縛する事’が愛なんですよね。 “愛は与える事、そして受け取る事”とはよく言ったもんです。 ![]() ![]() 忍者ブログ | [PR]
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