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宮崎駿さんの作品、観てると「偽善だなぁ」と感じるんだけど、 「そんな風になったらいいよねぇ」とも感じたり。 私には具体的な‘郷愁の念’はなく、 親のいる場所が故郷であって、‘地’ではない。 それに親元を離れてもいないので、‘懐古の念’もなく。 つまり振り返るチャンスがないわけで、 未来的ではない宮崎さんの作品には距離感が生まれる。 純粋に自然との共生・共存を望んでいたり、 繋がりを重視してる作品かもしれない。 それでもなんか…過去を見せられて 「オマエ達のしてきた事、見ろ」と叱られてるようで。 とても子供向けの作品じゃない。 トトロではしゃぐ子供達に罪の意識を感じるのは年くった証拠かねぇ? ちなみに『ナウシカ』では きょしんへいが立ち上がろうとするシーンが好きさ。 後にあのシーンは『エヴァ』の庵野さんが担当したと聞き、 ちょっとうしろめたい…。 正論に反発したくなる時ってございませんか? 認めてるからこそ、 「いや、そっちじゃなくてさ」と風穴を開けたいような。 自分にとって有意義な方向に壁を崩して行きたいんだけど、 正論に阻まれてうまくいかない。 「ああ、そんな手順なんかぶっとばしたい!」っていう。 例えがないと伝わりませんか。 ウッチャンナンチャンもネタにしていた“社交辞令”の事です。 みんな仲良し、はたいへん美しゅうございますよ、ええ。 でもニコニコ顔でウソをつくのは悪徳だとさえ思うんです。 私もすみっこながら社会に属してるのでそこらへんを、 わずかながら心得ているつもりですが、 役割をうまく演じすぎている方と出会うと混乱いたします。 「あ〜、この人やさしい〜」となついてたのに、 ある日突然「いいかげんにしろ!」って怒られたり。 ガマンを表に出してくんないとわかんないよぅ〜。 暗黙の了解、私はそれを‘甘え’だと思っております。 カンペキな相互理解というのはたいへん難しい事です。 なぜ人は言葉を使うのか。手話を使うのか。点字を使うのか。 もっともっとハッキリ 相手に言わんとしている事を伝えたいからではないかい? 伝える気がない、伝わった気でいる人々は不満を募らせる。 「こんなに何も言わずにガマンしてるのに」。 何も言わないから伝わらないのです。吐け。 PR 自分が特殊だとは思わないけど、 言葉の受け取り方がおかしいっていう自覚はある。 とんでもない方向だったり、先に進みすぎたり遅れすぎたり。 例えば小さい頃、 母の「ここはXX(場所)のはずれだね」に 「じゃああたりはどこなの?」と答えた。 相手がどこをポイントにしてしゃべってるのか、わからないのだ。 ある人に「枝ばかり見てて幹を見てない」と言われたが、 その通りだろう。 なぁんでこうなっちゃったかなぁ。 「バカ」って一言で片付けられてもいいけど。 でもねぇ(言い訳開始)、私には‘当たり前’がないからねぇ。 幹のない私に幹を見ろったって、難しいよ。だからおべんきょ中。 ‘当然’という言葉を本気で使っちゃう人ってどうよ? それ‘あなたの当然’でしょ?って思う事多々あり。 不平・不満を言うのは簡単。 だけどそっから先をアドバイスする人は少ない。 「なんでそこまでしてやらなきゃならないんだ!」と言う人には 「なんでそこまでしてもらおうと思ってんの?」てなもん。 文句言うならオマエやれ。 「アメリカインディアンの教え」を読んだ。 嫌われた、という事を自分の評価に繋げてはいけないって。 私はコレをずっとやってきた。 人の不機嫌には敏感で、取り繕うために必死になる。 「ヤダ」と言えずにガマンをして、 でも心底では腹を立て続けてついには爆発。 ‘ふり’は自己保身でしかないのだな。 自分を可愛がってたら思いやりはいつまでたっても生まれないや。 こういう知識だけ増えるのは困ったもんなんだけど。 心のエコロジーというか。 動揺を持て余してここで色々語ったのだけれど、 もういいかな、と思えるようになってきた。 ひとつひとつ取り上げて考えれば考えるほど 自分だけの問題ではない事がわかってくる。 相手の事まで考えるのはきっと、ムダなんだろう。 だって私はその人ではないのだから。 その人が考えるべき事はその人が考える。 そもそも私の感覚はズレまくっているらしく、 それを常識ハズレだの変わり者だのと批判する人達よりも おもしろがってくれる人や理解してくれる人といた方がシアワセだわさ。 選ぶ側に立ったつもりが選ばれる事に必死だ、 なんて弱みはここらで投げ捨てよう。ポイ捨て解禁。 定例チャット(平沢さんとチャットできるイベント)に参加。 「どう思われてもいいや」と捨て身のダイビング。 ステキなスキューバを体験できました。 全く同じ発想をした(どの発想かは内緒)平沢さんに 親近感を勝手に抱いたり。 ああエンターキー押さなくてよかった…。 あんな激しいツッコミ入れられたら立ち直れねぇ。 もう会えないかなぁ、と思っていた方 (HP休止されちゃってサミシイわ)とすれ違えたし、 いろいろディープなお話も聞けたし、言う事ナシにおもしろかった。 来月もしくよろ。 髪を染めようと思ってたところ、やっとそのチャンスが。 ただ今レッドブラウンでございます。 髪を切ってサッパリ…はしてないんだけど (だからデジカメ欲しいんだって)、 友達は「後ろから見たら少年だよ。誘拐されないようにね」。 誘拐される、と言えば誘拐されそうになった記憶が。 ひとりで公園にいると必ず話しかけられた。 たいてい「ひとり?お父さんかお母さんは?」と取り調べに来るが、 中には「お父さんの仕事は?」 「ここにいる事、知ってる人いる?」 とか訊いてくる人がいた。 今考えると誘拐されそうだったのかなぁ、と。 あ、いろいろ思い出してきた。 ご近所の転校生に呼び出されて何かと思ったら 「美人でしょう?」と何人かに紹介された事がある。 その子には私が美人(小学生なのに)に見えたんだろうけど、 相手は困ってたよ。 だってその子の方がめちゃカワイイ。 ライブ会場かどっかで突然「友達になってください!」 って呼び止められた事もあった。怖いよ。 高校生の時渋谷で「映画好き?」「はい」「いくつ?」「18」 「へぇ〜大人っぽいね。残念だけど」というやりとりがあった。 どうやらAVかホステスのスカウトだったよう。 もひとつ「写真撮らせてください」。ヒマだから撮らせたけど、 逆光で撮るあたりナンパだったか? まったくどれもこれも自慢になりませんな。こんなんばっかり。 本気でほめられたいのぉ。 制限の厳しいHPを見た。怖かった。入れただけでラッキーかも。 これはケイト・ブッシュのアルバム『THE RED SHOES』の 表題曲にある歌詞の一部。 「赤い靴」は、「うまく踊りたい」と願うバレリーナの夢は叶ったが 靴が脱げるまで踊り続けなければならない、という物語。 夢であって欲しい事と現実であって欲しい事がある。 私はどちらも現実だと思っている。すべて本当に起こっている事。 「胡蝶の夢」のようにどちらが夢か現実であるか迷うのであれば 両方実感しているものにすればいい。人であり蝶である。 例えばなめらかなテーブルの上でコップが移動して驚いたとする。 科学的にその現象を説明するのは簡単。表面張力。 そんな風に簡単に説明されたくないと感じるのは 夢見がちな人かもしれない。 私ならどこに注目するか。 移動したコップに「わっ」と驚いたとこに注目する。 感覚を閉じて生きていると喜怒哀楽のない、 ‘ただ過ぎて行く日々を暮らす’になってしまう。 ヒドイ目にあった辛い記憶があるなら 何事にも感じないようにするのではなく、 それを糧としてさらに強くなればいい。 悩んでいる人は強い。傷を見つめる事ができるから。 人には忘れる力があるというのに、 忘れずにいつまでもこだわっている。 なんと強い人であるか。 考える事が好き。だけどそれは人の心の奥深くまで届くものではない。 正しさもハデさも求めちゃいない。 ただ、広がりを持たせたいだけ。重みはない。 しかし自分の言葉に(マイナス方向に)重みがあると気づいた時、 ひどく動揺する。 夢であって欲しい。だけど夢じゃない。 できる事は受け止めるのみ。 言い訳はするけどね。 忍者ブログ | [PR]
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